2010/06/05

ことばにできること

建築は言語になりうるのでしょうか。

建築はひとつの言語だ、なんて話をよく聞きます。僕らが日本語で思ったことを誰かに伝えるように、建築を通じて何か伝えることができると。

建築がひとつの言語であるとすると、日本語の文法や単語などのように何らかのルールがあります。建築を読み解くとき、そのルールを学ぶ必要があるのです。

僕ら日本人が英語を理解しようとしたら、まずは最低限の単語や構文などを学ばなければ理解できっこありません。とすると僕のような建築学科の人間が、大学4年間で学ぶことがルールを知ることになるのでしょうか。たぶんそれだけではないはずです。

だって、僕たちが建築を理解するのは、ことばより、まずは身体を使って理解をするじゃないですか。扉を開ける。寝転がった床がひんやりしている。窓からの光が眩しい。これら全てことばとして意識して行っているわけではなく、身体で感じているのです。だから大学で学ぶような内容は建築をより楽しく理解させるものではありますが、それが全てではないと思います。素人の人でも、充分に空間を読み取っているんじゃないか。これが建築を読み解くということなんじゃないか、ってのが僕が思うことです。

そう考えたとき、「ものが語る」とはどういうことか。ものづくりをする人々は、「口よりもので語れ」というのが僕の信条です。「ここは快適な空間になります」なんてことばで説明した時点でそこはもう快適な空間にはなり得ません。だから模型写真などで「あ、なんか良さそう」と思わせる。つまり、建築を言語として使っているわけです。

ことばにできない気持ちを建築で表現するっていうのはなんだか矛盾してます。建築を紹介するとき、「ことばにできないけど僕の建築で言いたいことがあるんです」なんて言われても、言われた側は首を捻っちゃいます。でも、もので評価される以上、ことばは最小限に留めなければならないと思います。実物ができたら、ことばで解説することはできないからです。

建築を言語として使ったとき、どこまで伝えられるのか。そもそも何かを伝える必要はあるのか。考えることは山積みですね。

コンペの話をしようかと思ったのに、脱線し過ぎちゃいました。また別な機会に書こうと思います。